消費者と生産者

消費に慣れ切ってしまうと、生産することを思いつかなくなるという話

お正月に実家で夕飯を食べた後雑談していたとき、「最近凧揚げをあまり見なくなったね」という話になって、「おもちゃ屋にもあんまり売ってないしなぁ」と話していました。その時、うちの親父が「凧は買うものじゃなく親が子供に作ってあげるものだ」と言い放ちました。そういえばそういうもんだなぁと思いました。

店に行けば何でも売っている世の中になって、自分で作るということをふと忘れてしまうことが多くなっているんじゃないかなぁと思うのです。

大掃除のとき、ちょっとした空きスペースに入れる棚が欲しくなって、寸法を測ってホームセンターに行ったのですが、ぴったりくる気に入った棚はなくて、まあいいかと結局買わずに帰ってきてしまいました(もちろん、その他にも買うものはいくつかあったのですが)。寸法まで測ってあるのだから、2×4材かなんかを買ってきて自分で作ればいいのですが、そこまでしようとは思わず、「まあ無くてもいいか」になってしまいました。


経済関係の話で、「経済を活性化させるために消費を増やす」という話になったとき、そこから「みんな物を買わないのが悪い。もっと物を買え」「そんなことを言われたって、売っている商品の中に買いたくなるものがない」という不毛なやりとりになってしまっている場面を見かけます。

「消費を活性化させるためにもっと物を買え」という発言のおかしなところは、そんなことをわざわざ言われなくても誰だって物は買いたいはずで、買えない理由があるから買わないだけなのだということを無視しているところにあります。だから、「買え」ではなく、買えない理由を見つけて、それを取り除く方法を考えるようでなくてはなりません。

しかし、「買いたくなるものがない」と言っているのも、消費に慣れ切ってしまって自分で作るということを忘れているなぁと思うのです。自分で作る人だったら、買いたくなるものがないのなら、自分で作るからその材料を買うという流れになるはずです。材料なら「買いたくなる」かどうかは関係ありません。


しかし、自分で作ることをしなくなってしまっているのにはもう一つ理由があります。買ったほうが安いという理由です。

たとえば棚が欲しいと思って、売っているものと同じものを作ろうと思うと、材料費だけで完成品の棚の価格よりずっと高くなってしまいます。材料の方が完成品より高いんじゃ、作る気がしなくなってしまうのももっともです。

これは流通の問題なんでしょうかね。材料を買って作ろうとする人があまりいないから、価格を下げられないという。そうだとすると、高いから人が敬遠し、さらに高くなるという悪循環になってしまいます。


店に並んでいる完成品から選ぶことしかできないという不自由も、そこしか見なければ、そしてそれを当たり前と思ってしまえば、選ぶことができるという自由に変わります。そして同時に、そこが井の中であるという認識を持てなくなってしまいます。

そこから抜け出そうと思うなら、多少不合理でも、自分で作る習慣をつけるべきなんでしょうかね。いまいちスッキリとはしませんが。