相手の立場で考えるということ

相手の身になって考えることとの違い

最近、相手の立場に立ってものを考えることができてないように見える人たちがよく目につくような気がします。これは、思いやりがないとか、相手のことを考えないとかいうことではありません。「自分」を「立場」と切り離すことができないという問題に見えるのです。


日本では、よく「相手の身になって考えなさい」とか「相手の気持ちを考えなさい」と言われます。そして、「相手の立場に立って考えなさい」というのも、同じ意味の言葉としてとられがちです。しかし、両者には大きな差があります。

相手の「身」とか「気持ち」というのは、主観です。それに対して、「立場」というのは客観です。「相手の立場に立つ」というのは、相手の客観に立った上で、自分の主観で考えるということです。これができない人が多いように見えるのです。

これができない人は、適切に「考える」ことができないので、全肯定か、その裏返しの全否定しかできなくなってしまいます。


たとえば、事件の報道に対して「被害者の気持ちを考えろ」と言う人がいます。もちろん報道に問題があるのも事実ですが、ここでなぜ「加害者の気持ちを考えろ」とは言わないのか。逆に、そういう人たちに「加害者の気持ち」を考えた発言をすると、「加害者を擁護するのか」と言われてしまいます。つまり、彼らにとって「○○の気持ちを考える」のは「○○を擁護・肯定する」と同義なのです。そして逆に、「○○の気持ちがわからない」は、相手への批判だととらえています。

相手の立場に立って考えようとするなら、まずは客観的な状況を知らなくてはなりません。そして、報道はそのためにあります。ただ、日本のテレビなどの報道機関はそのへんが問題で、本当に必要な客観的な情報や背景説明などは報道せず、ただ感情を煽るだけの主観的な内容にとどまっています。報道がダメなのか、報道にそういうものを求めてしまう視聴者がダメなのか、それとも視聴者がそういうものを求めていると勘違いしている報道がダメなのか、どれかなのでしょう。


どうも、「自分が違う立場にあることを想像する」ことができない人が一定数いるように見えます。あるいは想像することは可能ではあるがする必要性を感じない、というだけなのかもしれませんが。

たとえば、ネットのニュース記事に対するコメントに、心無い言葉を書き込む人が結構います。そういう人たちは、「ニュースで紹介されているような人が自分の周りにいたら自分はどう思うか」という観点でのみコメントしていて、「自分がその人だったらどう思うか」という観点ではないところが気にかかります。「当事者の立場に立って考える」という、文章を読む上での常識が通用しない人たちがいるということに。


ネット上の罵詈雑言は、よく「心無い」とか「すさんでいる」とかいった簡単な言葉で片づけられますが、実は何かもっと基本的なものの欠如なのではないかと思うのです。